ナ ツ キ の メ モ 箱


       




2022.09.30  怒りについて    
2021.05.21  末摘花    
2021.03.17  rewrite      
2021.02.24  断片
2020.09.21  朝と夕
2019.08.27  権威とは、、、  
2019.02.15  ほぼほぼ
2018.07.12  だれもが
2018.01.11  名前はなんでも
2016.09.13  どんな人になるか




怒りについて  



怒りについてよく言われていることに
怒りは二次感情、その奥に、悲しみや怖れなどの一次感情がある
とか
怒りは、感じ続けていると、エスカレートしてしまう
ということがあるけれど
それを鵜呑みにしないほうがいい人もたくさんいると思う。

そういう人は
怒りを感じると、深いところでリミッターが勝手に働いて
それを現さないようになっている。

だから
なにかあったとき、怒りは多くの人のように
初めには出てはこない。
悲しみなどの感情のほうが出てきて
圧倒され
その最初の一撃が去ったあとに
うまくいくと
怒りという名のエネルギーがむくむくと顔を出す。

しかし
悲しみがすでに少し落ち着いているわけだから
もう怒らなくもいいか、相手を傷つけたいわけではないし
相手も仕方なかったんだし
なんていう流れで
怒りは葬り去られる。
 
怒るべきとき、というのは、あります。
じぶんへの尊厳のために
きちんとした態度を取らなくてはならないときはある。

そうでなければ
その人は
喜怒哀楽を自然に感じるという、人に与えられている力を
じぶんで奪うことになる。

じぶんでじぶんを牢獄に繋いで
日の当たる場所に立つなんて
じぶんにはめっそうもないです、と宣言しているようなものだ。
 
おそらく、そういう人が
いざ怒ってみると
うまくそれが統合されていないので
破壊的に怒ってしまうようなことになって
ますます、怒ることに罪悪感を持ったり
抑圧してしまうこともあるのだろう。
 
だから、むずかしいけれど
でも、よたよたでも、おっかなびっくりでも
わたしたちは
感じるものそのものをよく感じていくしかないし
やり方は工夫しながら、それを現していくしかない。

そして
怒り続けていたらエスカレートするから
なんていうことは初めは忘れて
怒りという強いエネルギーを
少なくともじぶんのなかでは
徹底的に感じ抜いてみるといいと思う。

それが
本来のエネルギーをたぷたぷにして
しっかりと存在するじぶんであるための
一歩だと思います。

2022.09.30



末摘花  



末摘花は
笑いものになるほど器量がよくなく
歌も冴えず
かつ常識にも欠けて
とんちんかんな振る舞いをするような女性で

だから源氏にも
呆れたような歌を返してもらったり
なんであんな人と関わってしまったかな、、
と思われながら
続いていったわけだけれど

そのような人でありながら
源氏のことをずっと待っていました。

そのような人でありながら
じぶんのことを
ちゃんとした、源氏の奥さん的な人であると
思っていて
そこのところは揺るがなかったわけです。

そしてけっきょく
源氏は
末摘花を二条東院に迎えます。

末摘花の話は
紫式部の書きようも容赦なくて
読むたび力が抜けて
笑わずにはいられないから
笑い話として捉えられていると思うけれど
どうなんだろう?

ものすごくきれいな人だから
歌を上手に読むから
源氏から熱心に愛されているから
ということと
じぶんをどのような存在と思うかということは
あまり関係がないらしいということを
わたしは思います。

たとえば
空蝉という人は
ものすごく源氏に愛される。
にもかかわらず
彼女は身分のちがいということを考えて
わたしは身分の低い女だからと
かたくなに源氏に逢うまいとする。
そうすることでますます
源氏には大事に思われることにはなっていくのだけど
そうなることが目当てで
空蝉は身を引いていたのではないみたいです。

ありかた、身の置きかたというのは
おそらく、じぶんで選びとるものなのではないかなーと思う。

そのときになにか外的な条件みたいなこと
もしかしたら相手や周囲の思いすらも
作用しないのではないかな、、

あるのは、どのように貫くのか、みたいなことだけ、、

2021.05.21



rewrite  2021.03.17



小さな、書き換えの話。

小学校1年生のとき
クラス全員がひとりひとつずつ
じぶんの鉢で朝顔を育てていました。
いまの小学生と同じように、、

担任の先生にマジックで大きく
それぞれの名前を書いてもらった
プラスチックの青い鉢が
校門を入ってすぐのテラスに
ざーっときれいに並んでいた。

双葉が出てきた、とか
それがどんな風に、が
いちいち大事件だったような気がする。
わたしだけでなく
おそらくみんなが興奮しながら
登校するたび
鉢のなかに一喜一憂していました。

ある朝
学校へ行ってみたら
まだ本葉も増えていなくて
蔓が伸びているわけでもないのに
わたしの鉢だけが
低いところで
大きな白い花を咲かせてしまっていた。

先生もみんなも
なつきちゃんが朝顔第1号だね、とか
口々に騒いで喜んでいた
のだけど
わたしは
困った気分でした。

花というのは
ちゃんと本葉が増えて
背も高くなって
それから咲くはずなのに
どうしてまだこんなに小さいうちに?

わたしだけ、ちゃんとしたステップを経ずに
咲いてしまった、、
というふうに。

それからこのことは失敗みたいな
思い出すと
窮屈な気分になる出来事として
わたしのなかに
残りました。

さて
なんの拍子か忘れたけれど
わりあい最近
このことを思い出したときに

あ! と思いついたのは

そのころは気づいていなかったけれど
わたしはもともと
植物と仲良しだから
さっと花が咲いてくれたんだ
とも思えるな
ということだった。

人があたりまえにできるようなことが
できないからではなく、、

と思ったら
そうだという気がしてきました。

そうか、あれは
わたしらしい
どちらかというと祝福に近い
できごとだったんだ。

わたしはすっかり
確信してしまいました。

以来わたしは
この出来事を思い出すと
優しい、いい気持ちになれるように
なった。

おそらく
もっとクリエイティブに
書き換えることのできる過去が
たくさんあるのだろう。

過去は変えられない
というのは
わたしたちにとって隠れ蓑でもあるし
落とし穴でもある
と思う。

2021.03.17



断片  



モンスターズインクという映画が
ありました。

子どもと一緒に何回観たかな、、

あの世界では
かわいい子どもたちの
ギャー!!という
恐怖によるスクリームが
モンスターズインクなる会社の売る
動力源になっていて

それで子どもたちは
夜な夜な恐ろしい目に遭わされ
スクリームを搾り取られていた
わけだけど

いま思うと
あの映画は本質的なことを
見せていたな
と思う。

いまの地球も
人々の不安と恐怖、
あるいは
怒りや悲しみが
モンスターズインク的な立場のものたちにとって
まさにいい具合に
ふわぁっと立ち上っていて

彼らにとっての
すばらしい
エネルギー源に
なっているのだろう。

2021.02.24



朝と夕  



夕や夜、考えていて

A → B → C → A → B・・

とぐるぐる散らばっていたことが、

朝になると

A → B → C → D !

に実っている。

朝の起きぬけの時間には宝ものがあるな、、

2020.09.21



権威とは、、、  



週末、ちょっとした会話のなかで。

権威、みたいなことが話題になりました。

権威とは。
キャリア、肩書き、学歴、賞歴、、、お墨付きも
いかにすばらしいものであったとしても
その人自身、にはならない。。

その人の肌着、くらいにはなれるかもだけど
肌! にはなれない。

権威の残念さはそこよね。

なんとなく印象に残っています。

2019.08.27



ほぼほぼ  



この2年くらいのいろいろ
を通じて
ほぼほぼ確信していること、は
たいへんなことは恵みなのだ
ということです。

自身の、身近な人の、病気、怪我、
うまくいかない関係、
暗礁に乗り上げた計画、
どれもが
そのさなかに
わたしに愛をおくり
わたしに温まる関係をもたらし
わたしに在りかたというものを示唆し
前を向くことの素晴らしさの実感をくれた。

たいへんなことを克服することで強さがついてきた、
面の皮が厚くなった、
みたいなことではない気がする。

その「こと」「事態」に正面から向き合うと
その「こと」「事態」自体が愛を放ち
たくさんの生きた智慧をくれる、、、ように感じています。
大きく開いた花が香りを放つように、、、

そのたいへんな状況のなかで
人はしあわせや喜びをたくさん体験することができる。

これは人生の秘密かも。

と思ってしまうほどに
それまでのわたしの人生は
うまくいっていることのなかのしあわせや喜びに支えられていた。

だからといって
たいへんなことをウェルカムという気持ちにはなれないけれど

そのさなかにいる自分を発見したときは
そこからのプロセスこそがおそらく
わたしたちが生まれてきて体験したいことなのだ
ということを
感じているのと
そうでないのとでは
自分の奥行きが変わることを感じています。

2019.02.15



だれもが  



だれもが
すこやかになれる力を持っている
と思う。

それを応援するようなことが
できたらいいなー
とも。

すこやか度100%、完ぺきになれる
という意味ではなくて

いまの時点より
すこやかな在りかたのほうを向く
ということ

いまの状況のなかにある
恵まれたところを自然と見
それをエンジョイできる

という意味で。

お金持ちじゃなく
身体が健康でなかった
としても
それはできる


幸せ度というのは
その
光を見ちゃう力
に比例するのでは
と思うのです。

2018.07.12



名前はなんでも  



関係の名前は
お知り合い、お友だち、
仕事仲間、仕事相手、
先生と生徒、
親子、兄弟、恋人、夫婦、
その他なんでも、
名前がつかなくても、

その人との間ならではで
できること
成立すること
共有できること
話せること
してもらえたりしてあげられること
がある
というの
がパートナーシップだなあ
と思います。

そういうことごとを
だいじに思うこのごろです。

2018.01.11



どんな人になるか  



おなじ「音楽が好き!」や

あるいは「音楽家」

と言っても

そのなかのどんなものを味わいたいのかや
どのような性質をのばしたいのか

ということは
10人いたら10通りだと思う。

それぞれの持つ、学びたいテーマは

たとえば
創造的になる
自信をもつ
じぶんのもちものを外にも出す
美しさにより深くダイブする
人の灯をつける

みたいに
ほんとうにそれぞれで

だから業種、お仕事をするしないも含め
それらはある意味些細なことというか
2の次なんだなあと。
わたしたちはつい、わかりやすいから
なにものなのか
ていうことを目印にしようとするけれど。

2016.09.13